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<写真> 風の旅人 復刊第4号(テーマ:死の力〜来し方、行く末)より 撮影/池谷友秀



 風の旅人 復刊第4号の編集のピークと、京都への引っ越しが重なって、落ち着かない日が続いたが、あっという間に,次号の発行日が目の前に迫っている。
 次号のテーマ、「死の力」で表したい事は、簡潔に言うと、死と同じ重さの生生と同じ軽さの死 ということになる。 どちらか一方だけを特別視するわけにはいかない。 死は重いが、生もそれに値するだけ、十分に重い。そのことが伝わらなければ、こうしたテーマで編集する意味はない。
*現在、ホームページで、お申し込みを受け付けています。 ホームページに詳しい内容紹介がございます。 http://www.kazetabi.jp/<企画趣旨>
 一九世紀末から二〇世紀にかけて生きたオーストリア・ハンガリー帝国の思想家ルドルフ・シュタイナーは、「緑は、生命の死せる像」であると書き、志村ふくみさんは、この言葉によって、世界中にこれだけ緑が溢れているのに緑の草木から緑色が染まらない謎が解けたと言う。緑は、死を帯びた色なのである。古代エジプトにおいても、死を司る冥界の主オシリス神の顔は緑色である。
 花もまた同じである。花は、開花した瞬間、既に死を帯びている、だから、花から花の色は染まらない。桜色は、花びらからではなく、花が開花する前の木の枝から染め出すことになる。
 花も緑も、狂おしい程に自らを出し切っている。連続する命の節目にあって、”必死”であり、目の前に迫る死が、生の艶やかさを浮かび上がらせる。
 話は変わるが、蜜蜂の働き蜂は雌であり、雄蜂は、餌を取る等の仕事をせず、たった一回の交尾の為だけに生まれてくる。新しい女王蜂が交尾期を迎え、空に飛び立つと、あちこちの巣から無数の雄蜂が飛んできて、死に物狂いで女王蜂を追いかけ、次々と交尾を試みる。交尾に成功し精子を放出した雄蜂は、性器を引きちぎられて死ぬ。そして交尾に失敗した雄蜂は、すごすごと巣に帰ると、働き蜂に追い出されて餓死する。交尾の為の何回かの飛行でたくさんの雄蜂と交尾をした女王蜂は、体内に精子をたっぷりと溜め込み、毎日千個以上の卵を生み続け、長いもので六年生きる場合もあると言う。
 蜜蜂の社会は、交尾の数だけ雄蜂の死がある。そうした社会を形成して、数千万年、命をつないできた。雄蜂の交尾は、まさに、”必死”であり、壮絶な死と生の交換である。
 自然は、生と死を別々のものと分けることができない。一つの死は必ず他の生とつながっており、豊かな自然風土の中で育まれてきた日本人の感受性は、そうした本質を見抜いていた。桜や紅葉に死の陰を見ながら、その美しさを愛でることは日本人の得意とするところである。
 しかし、その美意識が、軍国主義の玉砕の潔さと重ねられた過去の失敗を、我々は観念の中でずっと引きずっており、「死は、讃えられるべきではない」と、意識が固定されている。
 確かに、死を特別に讃えることは、生だけを讃えることと同様、片手落ちである。私たちが、花や緑にいい知れぬ感動を覚えるのは、花は咲いて散り、緑はやがて枯れる宿命の中で、真っ直ぐな必死さで、ほんとうの生を現しているからだろう。私たちもまた、花や緑と同じように肉体があるかぎり常に死と隣り合わせで、それだからこそ、連続する命の節目で、ほんとうの生を全うしたいと本能が願っているのだろう。生と死は一方だけ都合よく切り離すことはできない。
 自己の存在の弱さ、はかなさを知ったうえで、自分に与えられた力を精一杯に発揮して生きる人間の姿は、私たちの胸を打つ。そして、不条理に対して嘆いたり愚痴るばかりでなく、やれるだけのことをやりきろうという潔い気持ちが、湧き起ってきたりする。 
 生あるものは、いつか必ず死ぬ。個々の生は、長い歴史の中の一陣の風のようなものである。しかし、風は記憶に残る。生き残ったものは、死んでいったものたちの生き様を、自分の中を吹き渡った生々しい風のように記憶している。その記憶が、今この一瞬を生きる自分を支える。支えられることで、その力を、次に伝えたいと思う。今を生きるということは、連続する生の節目となり、死んでいくことである。

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<写真> 風の旅人 復刊第4号(テーマ:死の力〜来し方、行く末)より 撮影/池谷友秀

 風の旅人 復刊第4号の編集のピークと、京都への引っ越しが重なって、落ち着かない日が続いたが、あっという間に,次号の発行日が目の前に迫っている。

 次号のテーマ、「死の力」で表したい事は、簡潔に言うと、

死と同じ重さの生
生と同じ軽さの死

 ということになる。
 どちらか一方だけを特別視するわけにはいかない。
 死は重いが、生もそれに値するだけ、十分に重い。
そのことが伝わらなければ、こうしたテーマで編集する意味はない。


*現在、ホームページで、お申し込みを受け付けています。
 ホームページに詳しい内容紹介がございます。
 http://www.kazetabi.jp/

<企画趣旨>

 一九世紀末から二〇世紀にかけて生きたオーストリア・ハンガリー帝国の思想家ルドルフ・シュタイナーは、「緑は、生命の死せる像」であると書き、志村ふくみさんは、この言葉によって、世界中にこれだけ緑が溢れているのに緑の草木から緑色が染まらない謎が解けたと言う。緑は、死を帯びた色なのである。古代エジプトにおいても、死を司る冥界の主オシリス神の顔は緑色である。

 花もまた同じである。花は、開花した瞬間、既に死を帯びている、だから、花から花の色は染まらない。桜色は、花びらからではなく、花が開花する前の木の枝から染め出すことになる。

 花も緑も、狂おしい程に自らを出し切っている。連続する命の節目にあって、”必死”であり、目の前に迫る死が、生の艶やかさを浮かび上がらせる。

 話は変わるが、蜜蜂の働き蜂は雌であり、雄蜂は、餌を取る等の仕事をせず、たった一回の交尾の為だけに生まれてくる。新しい女王蜂が交尾期を迎え、空に飛び立つと、あちこちの巣から無数の雄蜂が飛んできて、死に物狂いで女王蜂を追いかけ、次々と交尾を試みる。交尾に成功し精子を放出した雄蜂は、性器を引きちぎられて死ぬ。そして交尾に失敗した雄蜂は、すごすごと巣に帰ると、働き蜂に追い出されて餓死する。交尾の為の何回かの飛行でたくさんの雄蜂と交尾をした女王蜂は、体内に精子をたっぷりと溜め込み、毎日千個以上の卵を生み続け、長いもので六年生きる場合もあると言う。

 蜜蜂の社会は、交尾の数だけ雄蜂の死がある。そうした社会を形成して、数千万年、命をつないできた。雄蜂の交尾は、まさに、”必死”であり、壮絶な死と生の交換である。

 自然は、生と死を別々のものと分けることができない。一つの死は必ず他の生とつながっており、豊かな自然風土の中で育まれてきた日本人の感受性は、そうした本質を見抜いていた。桜や紅葉に死の陰を見ながら、その美しさを愛でることは日本人の得意とするところである。

 しかし、その美意識が、軍国主義の玉砕の潔さと重ねられた過去の失敗を、我々は観念の中でずっと引きずっており、「死は、讃えられるべきではない」と、意識が固定されている。

 確かに、死を特別に讃えることは、生だけを讃えることと同様、片手落ちである。私たちが、花や緑にいい知れぬ感動を覚えるのは、花は咲いて散り、緑はやがて枯れる宿命の中で、真っ直ぐな必死さで、ほんとうの生を現しているからだろう。私たちもまた、花や緑と同じように肉体があるかぎり常に死と隣り合わせで、それだからこそ、連続する命の節目で、ほんとうの生を全うしたいと本能が願っているのだろう。生と死は一方だけ都合よく切り離すことはできない。

 自己の存在の弱さ、はかなさを知ったうえで、自分に与えられた力を精一杯に発揮して生きる人間の姿は、私たちの胸を打つ。そして、不条理に対して嘆いたり愚痴るばかりでなく、やれるだけのことをやりきろうという潔い気持ちが、湧き起ってきたりする。 

 生あるものは、いつか必ず死ぬ。個々の生は、長い歴史の中の一陣の風のようなものである。しかし、風は記憶に残る。生き残ったものは、死んでいったものたちの生き様を、自分の中を吹き渡った生々しい風のように記憶している。その記憶が、今この一瞬を生きる自分を支える。支えられることで、その力を、次に伝えたいと思う。今を生きるということは、連続する生の節目となり、死んでいくことである。

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 本橋成一さんの写真展が、品川のキャノンギャラリーで開催されている。http://cweb.canon.jp/gallery/archive/motohashi-ueno/index.html
 昨日、そのオープニングパーティに行ってきた。本橋さんは、いまだデジタルカメラを使わず、銀塩写真にこだわり続けている写真家だが、「上野駅の、幕間」と題されたこの写真展を見ると、写真は、ただきれいに映ればいいのではないということが、よくわかる。本橋さんの写真からは、上野駅の、あの時代の匂いがムンムンと漂ってくる。その理由は、写真がいいこともあるし、人々の存在感がいいからでもあるけれど、その二つを結びつける距離感とか時間感覚が、やはりアナログであることが大事なんだろうと思わせられる。とはいえ、ただ銀塩カメラを使えばいいというわけではなく、道具の使い手が、アナログでなければならないのだ。
 私は、本橋さんとの付き合いは深く、本橋さんの田舎の家で縄文土器の野焼きをさせてもらったり、家にも何度も泊めてもらっているが、たとえば本橋さんは、朝早く起きて洗濯をするのが大好きだ。そして、洗濯物の干し方が素晴らしい。ただ干せばいいのではなく、洗濯物を干す為の道具も美しいし、干された洗濯物の姿も美しい。本橋さんは、洗濯をするという単調で、日々、積み重ねていく行為を、とても大事にしている。洗濯の中に、味わいとか美しさを感じている。アナログというのは、そういう当たり前のことを、とても大事にする精神があってこそであり、ライカやハッセルを使っていればいいわけではない。 本橋さんの写真を見れば、おそらく多くの人が、アナログの良さを感じることだろう。しかしそれは、技術的なことや、道具の力ではなく、日々、育まれている感受性の賜物なのだ。 道具にこだわるだけの形ばかりのアナログというのは、実は、物事を一つながりで捉えることができないデジタルの感性であり、逆にデジタルカメラを使っていても、アナログを感じさせる写真がある。ただ、それはめったにない。なぜなら、合理性よりも、不合理なところに独特の味や面白さや豊かさや美質を感じてしまうのが、アナログの感受性であり、その感受性が強いと、便利すぎるものに面白みを感じられないからだ。
(写真ではないけれど、今回の展覧会中の4月5日に本橋さんとトークショーを行なう小栗康平監督の映画『埋もれ木』は、デジタルカメラで撮った作品であり、デジタルカメラだからこそ可能になったことも多くあるが、作品じたいは、それまでの小栗映画と同じアナログの魅力に満ちている。)
 様式としてのアナログではなく、存在感のあるアナログを生み出す人は、普通の人が遠回りだと思うものを、まったくそう感じていない。そうした何でもない過程(時間)が、ただ嬉しくて、楽しくて、ワクワクしている。
 「上野駅の幕間」という写真展を見ていると、本橋さんが、そのように心をときめかせながら、上野駅で、長い時間を過ごしていたことが伝わってくる。

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 本橋成一さんの写真展が、品川のキャノンギャラリーで開催されている。http://cweb.canon.jp/gallery/archive/motohashi-ueno/index.html

 昨日、そのオープニングパーティに行ってきた。本橋さんは、いまだデジタルカメラを使わず、銀塩写真にこだわり続けている写真家だが、「上野駅の、幕間」と題されたこの写真展を見ると、写真は、ただきれいに映ればいいのではないということが、よくわかる。本橋さんの写真からは、上野駅の、あの時代の匂いがムンムンと漂ってくる。その理由は、写真がいいこともあるし、人々の存在感がいいからでもあるけれど、その二つを結びつける距離感とか時間感覚が、やはりアナログであることが大事なんだろうと思わせられる。とはいえ、ただ銀塩カメラを使えばいいというわけではなく、道具の使い手が、アナログでなければならないのだ。

 私は、本橋さんとの付き合いは深く、本橋さんの田舎の家で縄文土器の野焼きをさせてもらったり、家にも何度も泊めてもらっているが、たとえば本橋さんは、朝早く起きて洗濯をするのが大好きだ。そして、洗濯物の干し方が素晴らしい。ただ干せばいいのではなく、洗濯物を干す為の道具も美しいし、干された洗濯物の姿も美しい。本橋さんは、洗濯をするという単調で、日々、積み重ねていく行為を、とても大事にしている。洗濯の中に、味わいとか美しさを感じている。アナログというのは、そういう当たり前のことを、とても大事にする精神があってこそであり、ライカやハッセルを使っていればいいわけではない。
 本橋さんの写真を見れば、おそらく多くの人が、アナログの良さを感じることだろう。しかしそれは、技術的なことや、道具の力ではなく、日々、育まれている感受性の賜物なのだ。
 道具にこだわるだけの形ばかりのアナログというのは、実は、物事を一つながりで捉えることができないデジタルの感性であり、逆にデジタルカメラを使っていても、アナログを感じさせる写真がある。ただ、それはめったにない。なぜなら、合理性よりも、不合理なところに独特の味や面白さや豊かさや美質を感じてしまうのが、アナログの感受性であり、その感受性が強いと、便利すぎるものに面白みを感じられないからだ。

(写真ではないけれど、今回の展覧会中の4月5日に本橋さんとトークショーを行なう小栗康平監督の映画『埋もれ木』は、デジタルカメラで撮った作品であり、デジタルカメラだからこそ可能になったことも多くあるが、作品じたいは、それまでの小栗映画と同じアナログの魅力に満ちている。)

 様式としてのアナログではなく、存在感のあるアナログを生み出す人は、普通の人が遠回りだと思うものを、まったくそう感じていない。そうした何でもない過程(時間)が、ただ嬉しくて、楽しくて、ワクワクしている。

 「上野駅の幕間」という写真展を見ていると、本橋さんが、そのように心をときめかせながら、上野駅で、長い時間を過ごしていたことが伝わってくる。

仲間に会いたいだけだよ。
一緒に生きている仲間に。
まだ信じているんだよ会えることを。
夢なんてどうでもいいよ。
わたしが見てるのは希望だよ。
わたしだけのものだよ。